『フリーダム』訳者あとがき
【訳者あとがき】
本書は二〇二一年にイギリスで出版された『Freedom: How We Lose It and How We Fight Back』の全訳である。
本書には二人の著者がいる。羅冠聡(ネイサン・ロー: Nathan Law)氏と、方禮倫(エヴァン・ファウラー:Evan Fowler)氏の二人であるが、本書で使われる一人称の「僕」は、一貫して羅冠聡氏のことを指している。主な著者は羅冠聡氏であり、共著者の方禮倫氏はサポート役に徹していたことが伺われる。方禮倫氏は、香港・中国問題を専門とするジャーナリストで、香港自由新聞(Hong Kong Free Press)の共同設立者の一人である。立場新聞のコラムニストでもあった。また、立場新聞の前身の主場新聞においては、コラムニストだけでなく顧問も務めていた。
筆頭著者の羅冠聡氏(香港では「羅冠聰」と表記されるが、日本の新聞などでは「羅冠聡」と表記されることが多いのでこちらに統一したい)は、二〇一四年の雨傘運動を率いた学生リーダーの一人である。その後二〇一六年に、黄之鋒氏や周庭氏らと共に、デモシストという政党をつくった。党首を務めていたのが羅冠聡氏である。同年、香港史上最年少の立法会議員に当選する。だが、政治的弾圧のために議員資格を剥奪され、さらには雨傘運動を指導したことで二〇一七年に投獄されることになった。二〇一九年のデモは、リーダー不在の分散型の抗議運動だったので羅冠聡氏が率いたというわけではないが、国際的な提言活動によって、アメリカ議会で「香港人権・民主主義法」を可決に導くなどの成果をあげた。二〇二〇年、国家安全維持法による弾圧から逃れイギリスに政治亡命する。同年、タイム誌の「世界で最も影響力のある一〇〇人」に選出されている。ノーベル平和賞にも毎年のようにノミネートされている。
本書は、羅冠聡氏がイギリスへの政治亡命後に、英語で書いた最初の本である。二〇一八年に香港で『青春無悔過書』という本を出版しているが、この最初の著作は国安法の影響のため現在は禁書扱いとなっており、日本語訳も出版されていない。羅冠聡氏の著作として日本語で読めるのは、本書『フリーダム』が最初の本である。
本の構成についてであるが、まず、各章を時系列によって貫く流れがあることに注意を促しておきたい。少し具体的に述べておこう。
第一章 両親の話と幼少期のこと。
第二章 中高生の頃。天安門事件追悼集会のこと。
第三章 大学生の頃。二〇一四年の市民的不服従運動のこと。
第四章 立法会議員の頃。雨傘運動をめぐる裁判のこと。
第五章 二〇一九年の逃亡犯引き渡し反対運動とイェール大学留学のこと。
第六章 二〇二〇年のロンドンへの政治亡命のこと。
このように、時系列に沿って展開される「縦糸」が本書にはある。しかし、本書は自伝や回想録のようなスタイルで書かれているのではなく、各章はテーマごとにまとめられた「横糸」も持っている。これについては各章のタイトルからも伺えることと思うが、訳者なりにまとめ直しておくと概ね次のようなところだろう。
第一章 香港と中国との違いについて
第二章 表現の自由について
第三章 市民社会について
第四章 法の支配について
第五章 社会分断と情報操作について
第六章 国際社会への提言
横糸のテーマは、縦糸のエピソードと関連して導入される。縦糸は、特殊的・歴史的事実を描くものであり、横糸は、自由と民主主義を支える普遍的価値を描き出すものだといえるだろう。著者は、横糸の価値観を描き出すことを重視していたとみられ、時系列を崩してまで数々のエピソードを挿入することをためらわない。これによって本書は全体としては、縦糸と横糸で織りなされる複雑な模様のテキストとして仕上がっている。
本書は、香港の政情について必ずしも詳しくない英語圏の人々に向けて書かれたものではあるが、著者の経験に裏打ちされた原則的な思想が書かれているため、もしかしたら少し難しく感じる読者もいるかもしれない(概念や論理が難解で理解できないという人だけでなく、理想主義がまぶしすぎてついて行けないという人や、原則の重要性を感じられないという人をも含む)。そういう方々をも含めてお勧めしたい本が近日中に出版されるので紹介しておきたい。
羅冠聡氏がウェブ上に中国語で書いた文章を編纂した本で、『香港人に希望はあるか』というタイトルで季節社から刊行予定である。これは日本だけのオリジナルの編集内容で、https://www.patreon.com/nathanlaw に投稿された記事が中心となっている。刻々と変化する情勢の中で、リアルタイムに母国語で書かれたものなので生々しさがある。収録予定は『青春無悔過書』執筆後の二〇一八年から、二〇二二年末の中国大陸における白紙運動までに投稿された記事だ。本書『フリーダム』の執筆時期と、かなり重なり合っているため、同じ話題について書かれている記事もあるが、もともと別の言語で別の読者層に向けて書かれたものなので、本書とは少し違った角度から光が当てられている。これは良い本に仕上がるはずだが、翻訳に時間が掛かり過ぎているという点が、私には気掛かりである。
実力があり熱意をもって迅速に仕事をしてくれる翻訳者を見つけるというのは一般論として難しいことであり、そのことは本書『フリーダム』でも痛感することになった。断っておくと、私はこの本の翻訳者である以前に、出版社の経営者であり、本書の翻訳権を取得して翻訳を依頼する立場にあった。それで当初は別の翻訳者に仕事を依頼していたのである。私はサポート役に回る予定だった。そうしたほうがクオリティの高いものが完成するだろうと期待したのであるが、長い時間をかけて翻訳してもらった草稿は、誤訳が多くて修正できないレベルだった。やむを得ず、私が最初から翻訳をやり直すことにしたのである。このときすでに原書の出版からほぼ一年が経過しており、時間的に余裕がない中での再出発になってしまった。
翻訳は、作品を殺すことができてしまう。その恐ろしさを実感しながら翻訳することになった。本書は、特に重要な本だと私は感じていた。内容が素晴らしいというだけでなく、二人の著者の背後には、声を上げたくても上げられない数百万の香港人がいるのである。彼らの想いを届ける翻訳をしなければならないという翻訳者としての責任を感じ、さらに出版が遅れてしまったことに対する発行者としての責任を感じた。
翻訳契約にも期限があるので、もしかしたら手遅れになるかもしれない状況にまで私は追い込まれていたのだが、この失敗からあえて教訓を引き出してみるとすれば、重要な仕事は、他人に任せっぱなしではいけないということだろう。少なくとも、ちゃんと説明責任を追及しないといけない(進捗管理など)。相手が一見すると優秀そうな専門家であっても、いい仕事をしてくれるとは限らない。任せる仕事の重要性が増すほどに、説明責任の重要性も増す。
こんなことは当たり前で、どんな分野の仕事においても常識なのかもしれない。そしてこれも常識かもしれないが、本書を翻訳しながら、主権者としての私も、政府に重要な仕事を任せていることに気づいた。ちゃんと説明責任を追及しないといけない。特に中国をめぐる政策では、直接的・間接的に様々な利権が絡んでくるだろうから、まったく油断がならない。エリートたちに任せっぱなしでは、後でぎょっとすることになりかねない。
もう一つ翻訳しながら思ったことは、そもそも本書の翻訳は、最初から私が使命感を持って行うべき仕事だったということだ。私ほど羅冠聡氏の言葉に感動しながら翻訳する人は、おそらく他にいないだろうと思ったのである。私が深く共感したのは、たとえば次のようなシンプルな言葉だ。
正義とは理想であり、すべての理想がそうであるように、どんな世代もそれを守るために闘わなければならない。
もちろん「正義」だけでなく「自由」も、そうした理想の一つだろう。この闘いのためには、不正義をありのままに直視しなくてはならず、無批判な現状肯定を避けなければならない。私を含む多くの日本人がやりがちなことだが、平和を望むあまり、権威主義国の現実的な脅威を低く見積もったりしてはいけないのである。そしてこのときもう一つ重要なのは、不正義を直視しつつも、その闘いが憎しみを原動力としてはならないということだ。
僕たちにとって大切なものを守り、僕たちの信じる価値観を貫き通すことは、敵対者を憎むことには依存しないし、依存するべきでもない。
本物の活動家(アクティビスト)を偽物から区別するものは、憎んでも当然すぎるほどの理由があるにもかかわらず、憎しみを原動力とはしないということだ。
羅冠聡氏ほど自己の価値観を貫徹している人物を、私は日本では一人も知らない。ただし、「活動家」とか「アクティビスト」といった言葉は、私にとっては少し居心地の悪さを覚える言葉ではある。白状すると私の目には、羅冠聡氏は「アクティビスト」というよりも、むしろ東洋的志士のように映っているのである。
「アクティビズムとは一つの生き方なのだ」という彼の言葉も、東洋思想的な知行合一のことだと考えてみると納得がいく。『香港人に希望はあるか』に収録予定の文章によれば、羅冠聡氏の座右の銘は「知行合一、択善固執。外円内方、堅守原則」であるそうだ。訓読みすれば「知と行いを一つに合わせ、善を固く択(えら)び執(と)る。外(そと)を円(まど)かに内(うち)を方(ただ)しく、原則を堅く守る」となる。知行合一といえば、吉田松陰や西郷隆盛などの幕末の志士たちにも大きな影響を与えた陽明学を連想させる言葉である。本書で「良心に従う」と訳した言葉についても、私は、陽明学の「良知を致す」という思想を連想してしまう。
なにも羅冠聡氏が直接的に陽明学の影響下にあると言いたいわけではない。本書で描き出されている「横糸」の価値観は、西洋思想が主な源流であろう。だがそれでいてなおどこかに東洋的・中国的な感じがするということを言いたいだけである。西洋と東洋のハイブリッドであるというのは、要するに香港的ということなのかもしれない。
そうした特徴は、本書の最後で引用されているフレデリック・ダグラスの言葉の解釈にも表れているように思う。「独裁者の限界を定めるのは、抑圧された人々の忍耐である」という言葉は、従来、「抑圧された人々の堪忍袋の緒が切れて忍耐の限界に達したとき、独裁者の横暴な政治もまた限界を迎える」という意味に解釈されることが多かった。被抑圧者の自発的服従(忍耐)が、暴政を支えているのだというこの解釈に従えば、独裁を終わらせるためには、忍耐してはいけないことになる。そして、私の見るところでは、ここで少なからぬ「アクティビスト」が罠にはまる。被抑圧者に忍耐をやめさせるために、憎しみを原動力としてしまうのである。
羅冠聡氏は、こうした従来の解釈を採用せず、ダグラスの言葉をさり気なく脱構築してみせる。彼の解釈では、抑圧の中で人々が、原則を堅く守りながら忍耐することによって、独裁が限界を迎える。従来の解釈が「忍耐するな」と言うのに対して、羅冠聡氏は「忍耐せよ」と言う。だがそれは自発的服従のための忍耐ではなく、大切な価値観を記憶し続け、善を固く択び執るための忍耐である。そうして「天の時、地の利、人の和」のすべてが揃ったときに、ようやく暴政が終わるのだ、と彼は書いている(『香港人に希望はあるか』参照)。
羅冠聡氏に東洋的なものを感じるといっても、それは少数の卓越した哲人たちの東洋のことだ。地理的には東洋に属するとはいえ、現代の原則(プリンシプル)のない日本のような国で、それがどこまで理解されるのかについては若干の心配がある。本書で言うところの「実用主義者」が、日本にもたくさんいることを私は知っているからだ。彼らは冷笑的に「若いねぇ。でも現実はそんなに甘くないんだよ」と言うことだろう。
そうした態度には問題がある。「自由を失うのは、自由を心から信じられなくなったとき」だからである。彼らは、中国の抑圧に加担してしまう可能性が高い。なにしろ中国には十四億も人がいるのだから、かつて田中角栄が言ったように、一人に手拭いを一本ずつ売るだけでも大変な商売になる。中国の抑圧に加担した企業に罰則を科す人権DD関連の法律が整っていない現状においては、よほどしっかりとした価値観を持っていなければ、そうした経済的な利益を犠牲にすることは不可能であろう。
もっとも、しっかりした価値観を持ついくつかの企業が中国から距離を置いたところで、他の企業がその穴を埋めて利益を拡大するようでは、全体としては無意味である。そのような状況下で抑圧に立ち向かうというのは、個々の当事者の倫理性だけに任せていたのでは困難なことだ。
国レベルで政治を動かす必要がある。さらに、羅冠聡氏が本書で提唱しているように、価値観を共有する自由主義諸国が、団結して共に立ち向かう必要がある。今日、中国がその軍事力と経済力を威圧目的に積極的に使っているのに対して、自由主義諸国は、多くの努力にもかかわらず、まだ充分に有効な対策が取れていないように見受けられる。とりわけ日本はそうであり、報復を恐れて、中国の人権侵害や国際条約違反に対する非難決議を避け続けている。だが曖昧な態度のままでは、他の自由主義諸国と団結することはできないだろう。そして団結できなければ、日本がまたいつぞやのように威圧を受けることになったとしても、ひととおり遺憾を表明した後は忍耐するか、あるいは忍耐し切れずに譲歩する結果になるだろう。そうした「忍耐」は、価値観を貫徹しているのでも「大人の対応」をしているのでもなく、自発的服従に近いと言わねばならない。そうした態度が中国を増長させて、抑圧を生み出してきたのだ。
その場所がどこであろうとも、抑圧に立ち向かうことは、究極的には、人間の尊厳のための同じ闘いの一部分である。
二〇一九年の香港デモのスローガンの一つに「兄弟爬山、各自努力」というものがあった。「同じ山を登る兄弟たちが、各自で努力する」という意味で、抗議活動の内部分裂を防ぐために使われた標語だ。だが香港だけに限らず、憎しみに囚われることなく抑圧に立ち向かう者たちは皆兄弟であり、究極的には、同じ山を登っているのではないかと私は思う。
世界の様々な場所において、文化や、生活様式や、宗教や、表面的な価値観は、異なっており、互いに矛盾しているように見える。しかしそうであっても、普遍的価値を再発見することで、同じ山を違ったアプローチで登っているだけだと気付くことができれば、文化の多様性を尊重し合いながら、互いに助け合うことができるのではないだろうか。文化の多様性を尊重するということは、普遍的な理想を目指して同じ山を登る多様なアプローチを尊重するということを意味している。普遍性の名のもとに、自文化のアプローチを押し付けるようなことがあってはならないが、多様性の名のもとに、弱者を谷底に突き落とすことまで受け入れてはならない。各自の努力を尊重するとはいえ、抑圧や威圧に苦しんでいる兄弟には、手を差し伸べる道徳的責任がある。
自由や正義といった理想は、もしかすると、権威主義国の直接的な脅威にさらされている香港よりも、日本のような国においてこそ忘却されやすいものなのかもしれない。かつては私も忘却の淵にあったのだが、香港の民主化運動が、それを思い出させてくれた。私にとって香港は「炭鉱のカナリア」というだけでなく、山頂へと向かう道を教えてくれた遙かに偉大な存在である。私が羅冠聡氏の言葉に深く感動するのもそのためだ。私の教わったそれが、読者にも伝わるような翻訳になっていることを願っている。