いまここの「幸せ」の話をしよう

仙人と道に迷った青年の対話

中原邦彦 著

本体1600円+税 ISBN978-4-87369-105-3
2022年8月発売 四六版並製 256ページ


【本文より抜粋】

 迷子

仙人 おや、こんな山奥で人を見かけるとは珍しい。もしかして君は、道に迷った青年ではないかね?
青年 そうです! 僕は道に迷った青年です! どこに向かえばいいのか分からず途方に暮れていました!
仙人 そうか、それは大変だったろう。だが私に会ったからにはもう大丈夫だ。
青年 こんなところで人に会えるとは期待していませんでした。
仙人 暗くなる前に、近くの洞窟まで移動することにしよう。ついてきなさい。
青年 はい。

青い鳥

仙人 ところで、君はなぜこんな山奥に迷い込んだのかね? もしかして死に場所でも探していたのだろうか?
青年 そんなに暗い顔してますか? 道に迷ってただけですよ。
仙人 自分探しで道に迷ったのかね?
青年 いいえ、そんなもの探してないです。
仙人 ならば、幸せの青い鳥を追い求めてここに迷い込んだのだろうか?
青年 いいえ、そんなメルヘンじゃないです。バカにしてるんですか?
仙人 「青い鳥を追う」というのは、幸せになろうとして社会的な成功を目指すとか、夢を追うとか、何か欲しいものを手に入れようとすることだ。表現の仕方はともかく、それはメルヘンなことではないと思うがね。
青年 そういう意味なら、誰もが青い鳥を追い求めていると思います。幸せを追い求めない人などいるのでしょうか?
仙人 幸せを追い求めるのは幸せでない人だけだ。もうすでに幸せならば、それを追い求めたりしないだろう。
青年 まあ、そうかもしれませんけど、それはただの屁理屈ですね。
仙人 さらに言うと、幸せとは何であるか分かっていない人だけが、青い鳥を追い求める。なぜなら青い鳥というのは、追い求めると逃げてしまうからだ。追いかければ鳥が逃げるのは当然のことだろう。
青年 追えば逃げるというのならば、罠でも仕掛けておきますか?
仙人 そんな話をしているのではない。そもそも君は青い鳥を捕まえてどうするつもりなのだ? カゴに閉じ込めて、幸せを独り占めするつもりなのかね?
 童話の『青い鳥』を知っているだろうか? チルチルとミチルという兄妹が、幸せの青い鳥を探して旅をするという話だ。二人は、思い出の国や、夜の御殿、未来の王国などを旅して、何度か青い鳥を捕まえることに成功する。しかし、捕まえた鳥をカゴに入れて持って帰ろうとすると、毎回それは黒く変わってしまったり、死んでしまったりするのだ。
青年 あらすじだけなら聞いたことあります。
仙人 君はそれと同じことをやっているのではないだろうか? 追いかけて捕まえても、手に入れたときにはもう飽きている。失望して、これじゃなかったと思う。そしてまた別の鳥を追い始める。この繰り返しで、いつまでたっても幸せが手に入らないのではないかね?
青年 僕の場合は、望んだものを手に入れてすぐ飽きるなんて贅沢なことをした覚えはないんですけどね……。手に入れられそうに思えても、結局手に入れられずに逃げていってしまうことばかりな気がします。
仙人 本当にそうだろうか? よく考えてみて欲しい。手に入れたものが望んだものと違ったから、それを勘定に入れていないだけではないだろうか?
青年 そんなことはないと思いますけど。でもまあ、いずれにせよ手に入らないわけだから似たようなものかもしれませんが。
 ところで昔から疑問なんですけど、なんで「青い鳥」が幸せの象徴とされるんでしょうか?
仙人 「鳥」というのは昔から自由の象徴でもある。おそらく、そこには青空を飛ぶ鳥の「自由」への憧れが込められているのだろう。もしかしたら君が本当に求めているのも、鳥のような自由なのかもしれない。
青年 はあ。
仙人 しかし、もしそうだとしたら鳥を捕まえてカゴに閉じ込めたところで、自由を手に入れることはできない。それでは逆に自由を殺してしまう。自由をカゴに閉じ込めておくことはできないからだ。
青年 じゃあ、どうしたらいいんでしょうか?
仙人 そうだな。冥想をしてみるのが良いだろう。
青年 は? それって意味ありますか?
仙人 私はここでよく冥想をしている。君は冥想の経験はあるかね? どんなスタイルでも構わないのだが。
青年 いや、ほとんど経験ないですね。そもそも冥想って何をやってるんですか?
仙人 冥想には様々なスタイルがあるのだが、簡単に言えば、幸せを追いかけ回すことなく、ただ静かに坐って、心を整えることだ。そうすると不思議なことに、青い鳥が向こうから寄ってくる。青い鳥は私の膝元で遊び、肩に止まることさえある。もし鳥を捕まえようとして動き回っていたら、こんなことは決して起こらない。鳥を捕まえようという気持ちが私にあるだけで、鳥はそれを察知して逃げて行ってしまうことだろう。自然の懐に抱かれて、ただ静かに坐っていればこそ、青い鳥も近くに寄ってくるのだ。
青年 はあ、そうですか。それは良かったですね。
仙人 やがて時が来れば、鳥は私のもとを飛び去っていく。鳥は自由なのだから、それもまた当然だ。どこか遠くで鳴き声が聴こえることもあるし、聴こえないこともある。だがいずれにせよ鳥を追いかけはしない。ただ静かに、自然との一体感を感じながら坐り続ける。そうすれば、たとえ鳥が近くにいなくても、青い鳥の存在を感じることができるのだ。何かを追い求めるのをやめて、目には見えない自然の流れと一つになるとき、心の奥深くから泉のように幸せが湧き出してくる。幸せというのは、そうしたものではないだろうか?
青年 はいはい、そうですね。
仙人 君、いったい真面目に話を聞いているのかね?
青年 ええ、聞いてますけど、これって宗教の勧誘とかじゃないですよね?
 ところで『青い鳥』の童話ですけど、たしか家に帰ったら青い鳥が見つかったんですよね? 探すのをやめたときに探しものが見つかるというのは、よくある話かもしれません。そんなわけで僕は、もう家に帰ろうかと思います。短い間でしたがお世話になりました。さようなら。
仙人 残念ながら、君はそう簡単に家には帰れない。
青年 えっ?
仙人 道に迷っているのだろう? どうやって帰るつもりだ?
青年 そうでした……。うっかり忘れてました。
仙人 それに、家に帰ったところで君は幸せにはなれない。童話がどんな終わり方をしているか覚えているだろうか?
青年 家に帰ると青い鳥が見つかったんでしょう? 幸せというのは遠くに探しに行っても見つからないもので、身近な日常の中にあるという教訓話だったと思いますが。
仙人 本当にそれが話の終わりだったかね?
青年 あっ、ちょっと違ったかも知れないです。青い鳥はその後、逃げ出してしまうのでした。身近な幸せを手に入れたと思ったけれどもすぐに、するりと逃げ出してしまう。幸せは遠くに探しに行っても見つからないし、身近なところでも手に入らない。―ということは結局、幸せになるのは不可能だということでしょうか?
仙人 いや、そんなことはない。幸せは可能だ。実際のところ、君の想像を超えた幸せが存在する。この迷い道を抜ければ、君にもそれが分かるはずだ。
青年 そうですかね……。あの、そういえばなんですけど、この話の別のエンディングをどこかで聞いたような気がします。その別の終わり方だと、家に帰って見つけたのは、青い鳥ではなくて空っぽの鳥カゴなのでした。そしてその空っぽの鳥カゴの中に、青い鳥の羽根が一枚だけ残っているのです。それで「ああ、僕らの飼っていたあの鳥が、実は青い鳥だったんだ」って気づいて空を見上げて、それでおしまい。―どうも結局のところ幸せになってないですね。
仙人 ん? そのエンディングというのはどこで知ったのかね?
青年 それがまったく思い出せないのです。何かの本で読んだような気がするのですが、どの本だったか……。もしかしたら記憶違いで僕が勝手に作ってしまったのかもしれません。
仙人 ほう、それはそれでなかなか興味深い。少なくとも君にとっての真実は、原作ではなくそのエンディングの中にあるのだろう。
青年 どういうことでしょう? どちらにせよ青い鳥は逃げてしまったのだから、同じことじゃないですか?
仙人 「家に帰る」ということについて、二通りの解釈ができるはずだ。一つは、探究をあきらめて出発点に戻るという解釈だ。それは灰色の退屈な終わりなき日常に戻るということを意味する。しかし、あこがれを捨てて家に帰ったところで、そこに幸せが待っているわけではない。そもそも君が青い鳥を探しに旅に出たのは、何かの欠落を感じていたからだったはずだ。また以前と同じような退屈な日常に戻って暮らそうとしたところで、その欠落が埋まるはずがない。それでは空っぽの鳥カゴを抱えて立ち尽くすことになるだけだ。「本当ならここに青い鳥がいたはずなのに……」と、一度も手に入れたことのないものへの喪失感を募らせながら、空を見上げて溜め息をつくことになるだろう。
青年 まあ、人生なんてそんなものだという気がしますけどね。
仙人 しかし「家に帰る」ということには、もう一つ別の解釈が成り立つ。それは、自己の根源に還るという解釈だ。そうすれば黒い鳥が、青い鳥へと変容する。
青年 でも、鳥カゴは空っぽでしたよね? 青い鳥は逃げてしまっていたじゃないですか? それは結局のところ、幸せは手に入らないのだということを意味しませんか?
仙人 そもそも、なぜ青い鳥をカゴに閉じ込めようとするのかね? 鳥は本来、自由であるべきだとは思わないか?
青年 まあ、鳥にとっては自由でいたほうが幸せなのかもしれません。しかし、それを手に入れなければ自分が幸せになれないから、鳥カゴに入れるんでしょう?
仙人 「鳥」というのは、しばしば魂のメタファーとしても用いられる。もし、鳥カゴに閉じ込められていたのが、君の魂だったと考えてみたらどうだろうか? 檻の中に閉じ込められて自由を失うと、魂は黒く変色して死んでしまう。鳥カゴを開け放ち、囚われた魂を自由にすれば、それは本来の色を取り戻す。そのとき世界が、色彩を取り戻す。翼を広げ大空を飛ぶとき、君はそこが本当の故郷だということを知ることになる。本当の故郷とは、魂が本来の自由を取り戻す場所のことだ。
青年 要するに、幸せであるためには、自由でなければならないということですか?
仙人 そのとおりだ。「幸」という漢字の由来を知っているだろうか? この漢字は、外された手枷を表わしている。手枷が外されるというのは、つまり自由になるということであって、それが「幸」という字の由来だ。逆に、手枷をつけられた状態の人を表わすのは「執」という漢字だ。
 自由であるためには、外部の権力や圧力から解放されることが重要なのは言うまでもない。だがそれだけでなく、自我が生み出す執着によっても、人は自由を失ってしまうものだ。自我という手枷を外さなければ、自由になれない。それでは幸せにもなれない。漢字の成り立ちはそのことを教えている。
青年 なるほど。「幸」という漢字にそんな深い意味があるとは知りませんでした。昔の人は洞察力がありますね!
仙人 うむ。もっとも古代シナ人が、どこまで自覚的に「幸」や「執」ということの本質を捉えていたのかは定かではないがね。漢和辞典をいくつか調べてみたが、「幸」とは執着から自由になることだと解説しているものは見当たらなかった。大抵の説明は「手枷を外されて刑罰を免れたのは、思いがけなくラッキーだから幸せ」というものだ。
青年 え? じゃあ「幸」が執着から自由になることを意味しているというのは、もしかしてあなたのオリジナル解釈ですか?
仙人 まあ、そういうことになるかもしれない。
青年 なんだ、ジジイの戯言だったか……。真面目に聞いて損しました。
仙人 戯言ではない。私は幸せの本質について話しているのだ。その洞察を欠いていたら、語源など雑学にしかならないではないか!
青年 はいはい、そうですね。
仙人 君に雑学を教えるつもりはない。人生の迷い道をどうやって抜け出すかを伝えたいのだ。その際に頼りにするべきは漢和辞典などではない。そういう知識の量をどれだけ増やしても、人生の問題を解くことはできない。人生において大切なことは、自己の根源に還るための道を知ることなのだ。


【あとがき】

 いちおう断っておきたいのですが、僕は「青年」でもなければ、「仙人」でもありません。青年と呼ばれる年齢はすでに通り過ぎてしまいましたが、仙人のような境地には到達していないので、「青年」でも「仙人」でもないどっちつかずの存在です。どっちつかずというのは、「青年」と「仙人」の両者が僕の中に住んでいて、互いの存在を主張し合っているということです。本書は、そんな僕の心の奥の洞窟における内的な対話というつもりで書きました。
 本書は「人間にとって本当の幸せとは何か」ということを主軸に、死とニヒリズム、愛とセックス、人間の残虐性の由来、資本主義と人類の未来、空性と悟りなど、多岐に渡る問題を扱っていますが、これらをバラバラに論じるのではなく、切り離すことのできないひと繋がりの議論として展開するように心掛けました。より善く生きるために最も重要であると思われた問題群に真正面から取り組み、普遍性のある答えを提示したつもりです。
 内的な対話ということにしなければ、こういう内容の本は書けなかったと思います。たとえば僕が読者に向けて説教を垂れるという形式では、書いた途端にすべてを消したくなってしまったことでしょう。もっとも実際には、内的な対話というスタイルであっても、書いては消して書いては消してを繰り返すばかりで、いっこうに先に進みませんでした。もしかしたら生きているうちに書き上げることができないのではないかとさえ思いましたが、なんとか完成まで漕ぎ着けることができたことに、いまは僕自身が驚いています。
 
 『いまここの「幸せ」の話をしよう』というタイトルは、マイケル・サンデルの『これからの「正義」の話をしよう』の向こうを張ってつけたものです。といっても、日本語版のタイトルに対抗しているだけであって、本の内容からは影響を受けていません(実はまだタイトルしか読んでません)。内容的に影響を受けた本は他にあるので、それらについていくつか書き記しておきます。
 最も影響を受けたのは、OSHOと、見田宗介(真木悠介)と、エーリッヒ・フロムの三人です。本書の「仙人」は、この三人の面影とどこか重なるところがあるのを感じながら書きました。「仙人」は、いわばユング的な元型イメージであって、誰かをモデルにしたというわけではないのですが、それでも面影が重なるように感じたのは、幸せについての考え方にどこか似たところがあるからだろうと思います。
 OSHOの本で挙げたいのは『瞑想録──静寂の言葉』の一冊だけです。これはOSHOのエッセンスを凝縮した抜粋によって組み立てられている本で、数年前に僕が翻訳しました。断片から全体的な思想を浮かび上がらせるような翻訳を心掛けているうちに、数々のインスピレーションを得ました。それがOSHOの思想を正しく反映しているのか、それとも僕自身の独特のものなのか良く分かりませんでしたが、そうしたインスピレーションに言葉を与えようとして書き始めたのが本書です。もっとも、何度も書き直しているうちにOSHOの思想から徐々に離れていったように感じています。最も大きな違いは、OSHOが頓悟を強調するのに対して、僕は漸悟を重視していることでしょう。OSHOのコミューンがアメリカを追放されることになってしまった遠因の一つに、彼が頓悟を強調し過ぎて漸進的な欲望の浄化を軽視したことがあるのではないかと僕は考えています。
 見田宗介は、社会学者としては珍しくOSHOを高く評価していたようで「OSHOの表現は私自身のそれよりもよりインスピレーションに満ちている」と書いたことがあります。しかし僕の読んだ限りでは、彼の表現は、OSHOに勝るとも劣ることはありません。『社会学入門』などというタイトルの本で、感動のあまり何度も泣かされるなんてことは、他の学者が書いたものならば想像もできないことです。本書一八六頁の「かつてアメリカ原住民が白人たちとの間に感じた最も大きな違いは、白人たちは平気で花を折るが自分たちは花を折らないことだった」という話は、『社会学入門』で知りました(見田はこの話を、小林一茶の俳句との関連の中で紹介しています)。また本書との関連性でいえば『現代社会はどこに向かうか』も特に重要な本です。これを読む以前には、人類の未来に対する僕の予想は、もっと悲観的なものでした。その他、ペンネームの「真木悠介」の名で書かれた『気流の鳴る音』『時間の比較社会学』『自我の起原』などからも影響を受けました。彼はしばしば、手段的ではない「コンサマトリーな幸せ」について語っていますが、これを僕なりに言い換えたのが「いまここの幸せ」です。それは「心のある道を歩む」ということに他なりません。
 エーリッヒ・フロムからも大きな影響を受けています。テニスンの詩と松尾芭蕉の俳句を対比させたのは、フロムの『生きるということ』にならったものです(フロム自身は、鈴木大拙にならってこの二つの詩を対比させました。余談ながらOSHOも講話の中でこの二つの詩を対比させたことがあります)。サド・マゾヒズムと権威主義については『自由からの逃走』や『愛するということ』などの著作から多くを学びました。本書では、サド・マゾヒズムを、支配と服従の確認行為であると位置づけることによってフロムの議論を整理し体系づけることを試みました。
 「仙人」と面影が重なるわけではないにせよ、「真の自己」について考察していくうえで大きな影響を受けた本として『意識と本質』『構造と力』『世界史の構造』の三冊を挙げておきたいと思います。
 井筒俊彦の『意識と本質』が、「真の自己」に関連するテーマを論じていることは明らかだと思います。井筒が取り組んでいるのは、イスラム神秘主義から松尾芭蕉までを含む東洋思想全体の共時的構造の解明ですが、それによってポストモダン的な思想に新たな視座を持ち込む狙いもあったようです。浅田彰の『構造と力』は、そうしたポストモダン思想の代表作です。象徴秩序とカオスをめぐる彼の議論では、人間の欲望は根源的にはカオスであると前提されています。カオスを統制している象徴秩序を、無制限に脱コード化することによって欲望をスキゾフレニックに散乱させること、浅田はこれを称揚しました。渾沌や絶対無分節についての井筒の議論や、彼が参照した様々な東洋思想は、こうしたポストモダン思想を超克する方向性を指し示すものとして読むことで格段におもしろくなりました。
 浅田彰は、ドゥルーズとガタリに触発されて、コード化(原始共同体)、超コード化(古代専制国家)、脱コード化(近代資本制)という文化の三つの類型について論じていますが、これは柄谷行人の『世界史の構造』における交換様式A(互酬)、交換様式B(略取と再分配)、交換様式C(商品交換)という類型にそれぞれ対応しています。柄谷はそこにもうひとつ交換様式Dを付け加えますが、これは互酬性を高次元で回復するものとされているので、ポストモダン的な無制限の脱コード化とは対応しません。普遍宗教や、世界共和国の構想や、カント哲学の道徳律などが、交換様式Dにもとづくものとされています。「人間の本質は社会的関係の総体である」というテーゼを前提すれば、交換様式Dとは、唯物論的に表現された「真の自己」に他ならないと解釈できます。なお、交換様式Dは統制的理念であって、構成的理念ではありません。つまりそれは、我々がそれに近づこうと努めるべき指標ではありますが、実在すると想定すべきものではありません。この点でも「真の自己」と同じだと言えます。
 その他には、宮台真司、広井良典、竹田青嗣、宇都宮芳明、西田幾多郎などの著作から多大な影響を受けていることが、文中の言い回しなどに表われていることと思います。
 
 僕が本を書くのはこれが初めてなので、僕の本として紹介できるものは他にはありません。しかし、季節社から出版した本には、僕の関心がいくらか反映されているので、企画中のものも含めてそれらについて紹介しておきたいと思います。
 まず『沖ヨガ入門』と『沖ヨガ美療』ですが、この二冊は、本書では詳しく書くことができなかった具体的な修行法に関する本です。インドのハタヨガに、禅、野口整体、マクロビオティックなどの要素を取り込んで、日本的に発展させている点に興味を持ちました。いろいろと試行錯誤を繰り返していた時期にあっては、沖ヨガの方向性は大変参考になりました。
 類似したテーマとして、氣の流れについてタイ伝統医学の観点から考察する本の企画があります。チェンマイのタイマッサージ学校で長年指導にあたっていた三野幸浩さんに執筆を依頼しています。[2023年追記:この企画はなくなりました]
 臨死体験についても出版予定の本があります。おそらく『光と悟りの臨死体験』というようなタイトルになるかと思います。著者は石井登さんです。臨死体験が人間的成長をもたらすことに注目した内容で、臨死体験についてはこれが決定版とでも言うべきものになるだろうと思っています。
 権威主義の問題に関しては、清水ともみさんの『私の身に起きたこと』を出版しています。絵本のような装丁のノンフィクション漫画で、中国政府によるウイグル人への弾圧について実際の証言にもとづいて描かれています。この作品はインターネット上で無料で公開されていますので、ぜひ多くの方に読んでいただきたいです。ウイグル人への弾圧がジェノサイドであるということを日本政府は未だに認定していませんが、こうした日本の外交姿勢は、自己中心的な国益だけに関心を持ち、普遍的な人権を軽視するものであると僕は思います。
 香港の民主活動家の羅冠聡(ネイサン・ロー)さんの本の翻訳出版も予定しています。ご存知の方も多いかと思いますが彼は、周庭(アグネス・チョウ)さんや、黄之鋒(ジョシュア・ウォン)さんと一緒に香港衆志(デモシスト)という政党を作って活動していました。党首を務めていたのが羅冠聡さんです。彼らからは、光に向かって進んでいく揺るぎない信念と純粋さを感じます。たとえば羅冠聡さんは、雨傘運動を主導した罰として二〇一七年に禁固刑に処せられた際に、次のようなコメントを出しています。
 
 どれほど壁が高くとも、光を遮る壁がどれほど巨大な影を作ろうとも、その向こう側には正義への道があると信じている。生命を育む太陽は、壁に遮られて見えなくなっても、消えてしまったわけではなく、確かに空高く輝き続けている。
 雨傘運動に参加してくれた人や、応援してくれたみんなに伝えたい。僕はすべての人のため、正義のために服役する。僕への同情は必要ない。ただ前に進もうとする意志を強く持って欲しい。自由な心を宿した僕の身体が獄中にある間は、僕と同じ信念や価値観を共有する人たちが、よりよい人生のために闘ってくれることを願っている。暴政は、誰かの犠牲によって覆されるわけではなく、道徳の力に突き動かされる人々が共に力を合わせることによって変わっていくのだ。その意志をあなたが持たなかったら、牢獄の内や外におけるみんなの痛みや苦しみは意味を失ってしまう。
 
 彼の言う「太陽」や「正義」は、民主的な政治システムを指しているだけでなく、もっと根源的なものであるような気がしてなりません。ウイグルよりはまだマシだとしても、香港そのものが巨大な監獄と化してしまった今では、「道徳の力に突き動かされる人々」が国境を超えて連帯し、その力を発揮しなくてはならないはずです。たとえば国際人権を擁護する積極的な外交を、自国の政府にもっと求めるべきではないでしょうか。そうしなければ、彼らの痛みや苦しみが意味を失うばかりか、やがては日本の僕たちも「壁」が作りだす巨大な影に飲み込まれてしまうのではないかと恐れます。
 実は他にも、香港の民主活動家の別の本を翻訳出版する準備を進めていたのですが、香港国家安全法による弾圧のために出版を取り止めざるを得なくなりました。詳細はここに書けませんが、関係者に危害がおよぶ可能性が生じたためです。香港国家安全法の最高刑は極めて重く終身刑です。自己の良心に従って生きようとする人々を牢獄に閉じ込めようとする間違った体制が改められ、この地上から消えて無くなることを切に願わずにはいられません。
 最後に、イム・キョンソンさんの『村上春樹のせいで』について書いておきます。この本は翻訳家の渡辺奈緒子さんに紹介してもらったのですが、文章を書くうえでの誠実さという、とても大切なことを教わりました。文才のない僕にとって、文章を何度も書き直すことは本当に苦しいことでしたが、諦めずにどうにか最後まで書き上げることができたのは、この本のおかげだったような気もします。『村上春樹のせいで』という作品を読むと、本を媒介して、人から人へと大切なものが伝えられていくことが感じられて胸が熱くなります。思えば僕もこれまで本を読むことによって、様々な大切なものを受け取ってきました。それは開かれた愛に似ていたような気がします。人間のこうした営みがもっと力強いものとなって、世界が平和になれば良いのに……と、そんなことを思いながら筆を置きたいと思います。
 
  二〇二二年三月 ロシア・ウクライナ戦争を憂いながら 


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