フリーダム

香港人の自由はいかにして奪われたか、それをどう取り戻すか

羅冠聡(ネイサン・ロー)、方禮倫(エヴァン・ファウラー)

中原邦彦 訳

本体1600円+税 ISBN978-4-87369-106-0
2023年4月発売 四六版並製 256ページ

自由のために行進したすべての香港人にこの本を捧げる。彼らの犠牲、なかでも、民主主義を求めて投獄された僕の友人たちの犠牲を、忘却させてはならない。

【著者紹介】

羅冠聡(ネイサン・ロー)
羅冠聡( ら かんそう)(ネイサン・ロー) 
2014年の雨傘運動の学生リーダー。
2016年に黄之鋒(ジョシュア・ウォン)や周庭(アグネス・チョウ)らと共に結成した香港衆志(デモシスト)の党首として、香港史上最年少の立法会議員に当選する。しかし翌年、政治弾圧のために議員資格を剥奪され、投獄される。
2020年にイギリスに政治亡命。国際的提言活動に尽力し、同年、タイム誌で「世界で最も影響力のある100人」に選出される。ノーベル平和賞にも例年ノミネートされている。
* 5月27日の朝日新聞に書評が掲載されました。
* 6月3日の日経新聞に書評が掲載されました。
* 6月11日の産経新聞に書評が掲載されました。
 
 【出版社より】

2023年7月3日、著者の羅冠聡氏らに対し、香港当局が1850万円の懸賞金をかけて指名手配することが報道されました。羅冠聡氏はイギリスに亡命中ですが、拉致などの危険にこれまで以上にさらされることになります。
羅冠聡氏には「外国勢力と結託し国家の分裂を扇動した」疑いがかけられています。「外国勢力と結託」のうちには、弊社から『フリーダム』を出版したことも含まれるのかもしれません。香港当局は、「外国勢力」を萎縮させる効果も狙っているのであろうと推測されます。
もし羅冠聡氏が本当に指名手配に値するような危険人物であるならば、弊社も活動を控えるところです。しかし、羅冠聡という人物は、賞金首になるような危険思想の持ち主なのでしょうか?『フリーダム』から伝わってくる彼の人柄は誠実で真面目であり、彼の政治活動も平和的・理性的・非暴力的なものです。「国家の分裂を扇動した」などと言われていますが、彼は穏健な政治主張の持ち主であり、中国と香港政府に約束を守るように要求していただけでした。
ぜひ『フリーダム』を読んでいただきたいと思います。やはり報道だけでは伝わらないものがあります。彼が何を主張し、どんな闘いをしているのかを深く知っていただきたいのです。謙虚で真面目な人柄の彼が、賞金首1850万円の最重要政治犯とされていることに多くの読者は驚くだろうと思います。
弊社としては、より多くの日本人に彼の著書を読んでもらうことが、彼の身を守ることにも繋がると考えています。「外国のことだから」といって、不正義に対して無関心であることが最も恐ろしいことです。
なお、弊社では羅冠聡氏が香港の同胞に向けて母国語で書いた文章を翻訳した『香港人に希望はあるか』も出版しております。『フリーダム』と併せて読んでいただければ幸いです。
 

【序文】

 自由とは何か? そして、自由な社会に生きるとは何を意味するのか? これは僕たちが問い得ることのうちでも、最も重大で難しい問いの二つだ。文化の垣根を超えて世界中で、非常に長い期間に渡って盛んな議論が繰り広げられてきた。西洋では、自由についての哲学的伝統は、しばしばギリシャ時代の擬人化された解放の理念「エレウテリア」にまで遡る。中国でも、老子、荘子、孔子、孟子の書の中心には自由についての問いがあり、「大同(the Great Unity)」という理想においても自由が表現されている。自由というものの捉え方は人それぞれ異なるだろうが、その核にあるのは、自己自身をどのように理解し、他者とどのように関わり合うか、という普遍的な問いである。
 一部の人々にとって、それは権力と服従の関係に行き着く。別の人々にとっては、尊厳をもって個人が生きることから自由が始まる。だが、他の重要なすべての問いと同じく、シンプルな答えはない。
 自由であること、自由の中で生きること、その意味は時代や状況に応じて変化する。苦難の時代にあって脅威を感じているときには、みずからの自由と引き換えにしてでも、集団の中で安定と強さを求めることだろう。だが、その脅威がなくなれば、自由の中で生きたいという要求が必ずまた生じてくる。重要なのは、問い続けることだ。僕らの時代における真実に近づくためには、議論と熟考を重ねる他にない。
 僕の故郷であり、僕という人間を形作った都市である香港は、現在、権威主義体制へと変貌する瀬戸際にある。アジアで最もリベラルでオープンだった国際都市は、活気ある市民社会と、かつてはあれほど堅固に見えた諸制度を有していたのに、どういう経緯で根底から変わってしまったのだろうか? 繁栄する自由社会が、どのようにして内側から蝕まれてしまったのだろうか? 中華人民共和国の権威主義的な影響力がますます強まっていく世界において、自由であるということは何を意味するのだろうか?
 これは学術書ではない。抽象的な概念について論じるのではなく、自由がどう感じられ、どう生きられたのかを書いている。それゆえ、かなり個人的なことにも触れる。香港の街頭で口々に叫ばれ、希望と犠牲の両方をもたらした、あの「自由」について考察している。この言葉は人によって異なる意味を持つかもしれないし、僕らの心をそれぞれ違う方向へと導くかもしれないが、それでも僕らは誰もが自由になることを望んでいる。誰もが自由を必要としている。
 二〇一七年、二四歳だった僕は香港の裁判所で、違法な集会を煽動しそれに参加したとして有罪判決を受けた。その三年前に僕は、香港当局から事前の許可を得ずに抗議活動を呼びかけていたのだった。平和的な抗議活動だったが、緊迫したものだった。裁判所への提出書類によると、重傷ではないものの、揉み合いの中で複数人の警備員が負傷したのだという。入院するほどの怪我人が出なかったことは幸いだったと思う。誰かを傷つけることなんて絶対に誰も望んでいなかった。
 それは二〇一四年九月二六日のことだった。抗議者たちでごった返した公民広場の、急ごしらえのステージの上に僕はいた。自然発生的に広がった抗議活動だったので、集会の許可を申請していなかった。それに僕たちは、抗議を行う固有の権利が自分たちにあると信じていた。結局のところ、僕たちはただ、憲法が僕たちに約束している民主的改革を求めていただけだったのだ。広場に来て一緒に抗議してほしいと、僕は人々に呼びかけた。学生、ホワイトカラーの労働者、活動家、その他たくさんの人々がこの呼びかけに応えて、広場の周りにぐるりとめぐらされた柵を乗り越えて来たので、あっという間に大群衆になった。そこには高揚感があって、その光景は混沌としていたけれども、平和的だった。僕らに漲っていたのは熱意であって、怒りではなかった。
 突然、ライトが消されて僕らは暗闇に放り込まれた。集会に参加した抗議者に紛れていた覆面警官の集団が、ステージに駆け上がってきた。警官たちは僕を取り囲み、手を掴み「君を逮捕する」と僕に告げた。ステージ後ろの壁に押し付けられて、ほとんど身動きも取れなかった。警官によって群衆から引き離されると、ショックはすぐに怒りに変わった。抗議者たちは、何が起きているのかをスマホを使って記録しようとしていた。これに気付いた警官は、スマホを取り上げようとした。警官と抗議者との揉み合いの中で、故意に相手を傷つけた者はどちらの側にもいない。香港はまだ汚れきってはいなかったのだ。
 僕は法律を破った。とはいえ、僕は「基本法」と呼ばれる香港の憲法が保障している「集会と抗議の自由」を行使しただけでもあった。抗議活動が求めていたのは「普通選挙によって全議員が選出される立法府」ならびに「香港政府のトップである行政長官を決めるための選挙権」だった。これは、一九九七年に香港が中国の統治下に返還される際に、北京が香港にした約束であり、香港の人々にとっては大切な約束である。シンプルに言ってしまえば僕が捕まったのは、北京に対して、約束を守れ、みずからが同意した香港の憲法を尊重しろ、香港の人々を臣民ではなく市民として扱え、と要求したからだ。
 二〇一七年七月、収監されるひと月前に、香港の立法会における僕の議席は、北京の命令によって剥奪された[訳注:香港の立法会は、日本でいえば国会にほぼ相当する]。一般投票を勝ち抜いて当選したゆえ親北京派の多くの議員とは異なり民主的な支持を得ていると主張し得たことは、僕の存在を中国政府にとって一層煙たいものにしただけだった。ネイサン・ローに投票しないよう人々を説得できなかった中国政府は、代わりにルールを変更することを選んだのだった。
 就任の宣誓を文言どおりに行っていたにもかかわらず、一年も経たずにその宣誓を無効とされ、僕は立法会から除名された六名の民主派議員のうちの一人となった。投票の結果、僕ら民主派は、三分の二の賛成を必要とする法案を阻止できるだけの議席を得ていた。これは親北京派の候補者に都合よく設計されているシステムにおいて獲得可能な権限としては最大のものだった。そして、除名された議員の「六名」という数は、親北京派が立法会で三分の二以上を占めるために必要な数と、きっちり一致していた。
 こうした政治的混乱の文脈おいて、標的にされていることが分かっていた僕は、自分への判決が心配だった。一党独裁政権による政治的迫害の長い歴史が続く中国本土とは異なり、香港でこんなことは起こらないはずだった。中国の元最高指導者である鄧小平の有名な言葉である「一国二制度」によって香港では、経済や政府組織だけでなく、権力行使の方法においても制度が異なるものと考えられていた。この統治モデルによって、香港という都市のビジネス面での信頼が維持されるとともに、独特かつ自由な香港のコミュニティの価値観と生活様式が守られるはずだった。平和的な抗議活動で投獄されるなどという前例はなかった。これは、香港が変貌しつつあることを示す憂うべき兆候だった。
 僕の裁判は、その年に他にも数件あったが、それは悪化の一途を辿る政治情勢の副産物だったといえる。香港の問題に対する北京の介入は、数十年に渡って強まるばかりだった。香港への投資は、経済的支配のための道具と化していた。経済的利益は政治的監視と相まって、香港の政治界とビジネス界のエリートたちを腐敗させていった。最も巧妙で、たちが悪かったのは、中国共産党が宣伝する価値観や物語に合うように香港社会を作り変えようとする動きだった。人々がこれらに反発したのは当然のことだ。政府への批判を、当局が力で抑え込むようになったのはショッキングなことで、これによって香港にとっての新たな章が幕を開け、僕のような活動家(アクティビスト)にとって投獄は避けられなくなっていた。
 評決が読み上げられるのを被告席で聞きながら、気持ちを落ち着かせるために深呼吸したのを覚えている。こんな場所にいるなんて、とても現実とは思えなかった。どれほど心構えをつくろうとしても、愛する人たちと引き離されるのを受け入れるのは辛いことだ。僕は母を見た。友人たちと一緒に傍聴席に座っていた母は、涙を流していた。
 僕の両親は数年前に離婚していた。両親がそうせざるを得なかったことは残念ではあったけれど、そのことについてわだかまりはない。僕が特に親しいのは母だった。僕を守り、面倒をみて、育ててくれた。母の涙を見て、末っ子の僕が母の不安の種になっていることが心に重くのしかかった。母に幸せになってほしいと、僕はそれだけを願っていた。でも今や僕は、被告席にいるトラブルメーカーだ。その日に禁錮刑が言い渡される可能性があったため、僕のやったことは正しいことなのだと胸中では理解してくれていた母までもが、彼女なりの苦行を強いられることになった。裁判官が禁錮八カ月を告げたときも、母は泣き続けていた。
 僕は、裁判という試練は覚悟していたことなのだと自分に言い聞かせ、こんなことで狼狽しないと誓った。冷静な、開かれた心のまま、良心に従ってこの試練を乗り越えることができれば、その時にこそ僕は、自分を真の政治活動家(アクティビスト)だと認めることができるようになる。僕は投獄をできるだけ前向きに捉えようと努力した。しかし、評決のときと同じくらい心構えができていたのにもかかわらず、法廷で判決が読み上げられたときの動揺は大きかった。
 今になって考えると、一番ショックだったのは、僕たちの権利を記しているはずの法律が、悪意ある者たちの手によって、いとも簡単に抑圧の道具へと変わってしまったことだった。「法制度は、力なき者を守るためにある」というそれまでの信念に対する疑問が生まれた。僕たちの集会の権利、自分の真面目な性格、そして過去に犯罪歴がないという事実は、僕には軽犯罪としか思えない罪──要は、知らない人たちを大声で激励したに過ぎない──と天秤にかけて考えられるのだろうと期待していた。僕を投獄するのは、やりすぎに思えた。だが政府はその時、明らかに警告を発していたのだ。
 法律が独裁国家の思惑(アジェンダ)のために利用され、市民への責任を果たすよう政府に求めただけの平和的抗議活動を抑圧するのに使われたことは、僕を恐怖させた。それは香港で起きてはいけないことだった。市民は街頭でデモを行うことで、自分たちの想いを表明した。二〇一九年六月一六日には、自由と民主化を支持する二百万人が香港で抗議のデモ行進を行った。実に、人口の四分の一である。多くの人が電車やバスに乗るのに何時間も待ち、集合地点に着くまでさらに何時間も行列に並んだ。事情が許せば参加していたという人は間違いなくさらに多いだろう。
 他のどんな理由のためならば、あれほど大勢の人々が鼓舞され行動するのだろうか? あるいは、あれほど大勢の人々が理想に奉仕するために、物質的豊かさも、個人的な自由も、さらには命までも犠牲にしたことが、かつて世界であっただろうか? 香港のように、その願いが打ち砕かれたとしてもなお、自由になりたいという想いは僕らの中で力強く燃え続ける──それが消えないのは、自由こそが、人間性の中心であるからだ。
 逮捕と禁錮で僕が受けた苦痛はたいしたものではない。遥かに酷い目にあった人はたくさんいる。だが、僕の裁判は前例を作ってしまった。この「新しい香港」では、正式な認可を得ていない平和的抗議活動は、あらゆる法的手段をもって罰せられる。僕がいま拘束されていないのは、亡命中であるからに過ぎない。僕がいない間に、監獄の壁は故郷の香港をぐるりと囲むまでに大きくなってしまった。表面的には普通の生活が続いているように見えるかもしれないが、ただ自己の良心に従って生きようとするだけで、あらゆる人に脅威がのしかかる。それでも、共に立ち上がる仲間たちがいる限り、約束された自由と権利を求めて同じスローガンを叫べる限り、たとえ彼らがいま世界のどこにいようとも、僕は立ち上がり叫ぶ。自由を求めて声を上げることは正しいことであり、それは僕らの権利なのだ。
 香港は、僕が「家」と呼ぶ都市だ。僕の愛する、かけがえのない都市だ。香港は僕にとって故郷であり、コミュニティだ。それが今ある僕を形作ってくれた。幸せも、愛も、失望も、苦しみも、すべて香港で経験してきた。ロンドンに亡命するために香港国際空港から飛行機に乗り込むとき、そのことを僕が忘れることは今後も決してないと心の底から思った。
 劇作家から反体制派の活動家になり、さらに初代チェコ共和国大統領になったヴァーツラフ・ハヴェルはこう書いている。

私たちが反体制派になることを選んだのでは決してない。どのようにしてかよく分からぬまま、私たちは反体制派に仕立て上げられてしまったのだ。どうしてかよく分からぬまま、投獄されたこともあった。私たちはただ、自分が為すべきだと感じたこと、自分にとってはマトモだと思えることを行っただけなのだ。それ以上でも以下でもない。

 僕は決して、活動家になることを望んでいたわけではないし、自由と民主主義と正義のための闘いに人生を捧げたかったわけでもない。北京は僕のことをトラブルメーカーだと言うが、自分でそう思ったことは一度もない。北京の独裁政権こそが、僕を含む多くの人たちに、自分たちの自由と生活様式を守るために立ち上がって声を上げることを強いたのだ。北京は、僕たちが大切にする香港の独自の歴史を書き換え、香港人としてのアイデンティティを再定義することを選んだ。僕たちが反体制派になったのは選んだからではなく、北京への反応なのだ。
 ミラン・クンデラが、いみじくも述べているように「権力に対する人間の闘いは、忘却に対する記憶の闘いである」。この闘いは、現在の中国と深く関係している。権力は常に、虐げられている人間の目を、未来に向けさせようとする。なぜなら未来はまだ定まっていないからだ。だが、自分たちがどこから来たのかを理解し、起こり得たことを想像するために、僕たちは記憶しなければならない。この本によって、ここ数年で僕の愛する香港に何が起きたのか伝えたい。これは僕にとって、中国共産党が忘却させようとしているものを記憶するための闘いである。同時にこの本の中で、自由が至るところで脅かされていることを示し、手遅れになる前に自分たちの自由を守るにはどうすればよいのかということについても書き記しておきたい。

 二〇二一年 ロンドン

【目次】

序文

第一章 自由と避難、そして希望
 - 移民の都市
 - 中国による侵食はなぜ問題か
 - 避難の地から迫害の地へ

第二章 蝕まれる自由
 - 香港の物語
 - 自由の失われる感覚
 - 初めての六四追悼集会
 - 異議を唱える自由
 - 報道する自由
 - 自由のない生活
 - 自由を守るために

第三章 抵抗運動と市民社会
 - アクティビズムの始まり
 - 授業ボイコット
 - 独裁者の敵
 - 死に至る沈黙
 - 市民社会の懐柔
 - 政治的予言が現実となるとき

第四章 法を利用した支配
 - 立法会議員への出馬
 - 宣誓問題
 - 香港の根本的矛盾
 - 公民広場を取り戻す
 - 誰がために法はある
 - 法の背後に目を向ける

第五章 偽情報と分断
 - 別れ道
 - 引き裂かれる社会
 - 国家主導の中傷キャンペーン
 - 真実は誰のもの?
 - 中国の特色ある真実
 - 価値観への裏切り

第六章 変化の力を信じて
 - すべてが順調なのはそうでなくなるまで
 - 壊れやすい民主主義
 - 経済的威圧を超える
 - グローバル権威主義に立ち向かう
 - 良心とアクティビズム、そして水になれ
 - 活動家であるということ
 - 行動しなければ意味がない

訳者あとがき
原注  

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