瞑想録

静寂の言葉

OSHO 著

中原邦彦、庄司純 訳

本体1500円+税 ISBN978-4-87369-102-2
2019年11月発売 四六版並製 192ページ

【序】

 群衆はいつも、雑多でゴチャゴチャしている。だが、雑多でゴチャゴチャした個人というのはいない。それぞれの個人は、真正な気づきのある意識だ。彼が群衆の一部となるとき、彼は気づきを失う。そして彼は、集団的で機械的な思考に支配されてしまう。私が取り組んでいるのはシンプルなことだ。──個人を群衆から引っ張り出して、個としての本性と気高さを彼に与えること。
 私は、この世界にどんな群衆も望んでいない。宗教の名のもとに集まろうが、国家の名のもとに集まろうが、民族の名のもとに集まろうが、そんなことは関係ない。こうした群衆は醜い。群衆は、世界中で最悪の犯罪を犯してきた。なぜなら、群衆には、気づきがないからだ。群衆は、集団的な無意識だ。
 気づきのある意識が、人を個にする。──風の中で踊る一本の松にする。太陽の光を浴びて栄光と美のなかにある一つの山の頂にする。一匹のライオンと何キロも谷間に響き渡るその凄まじく美しい咆哮にする。
 群衆はいつでも羊だ。そして、過去のすべての努力は、それぞれの個人を、車輪の歯車に変えること、死んだ群衆の死んだ部品に変えることだった。気づきがなく無意識的であるほど、そして集団に強く支配されるほど、彼は危険ではなくなっていく。実際、彼はほとんど無害になってしまう。彼は、自分の奴隷性を打ち破ることさえできない。
 反対に、彼は自分の奴隷性を美化し始める。宗教、国家、民族、人種──彼はこうしたものの奴隷なのだが、これらを美化し始める。個としての彼は、どんな群衆にも属していない。すべての子供は個として生まれる。だが、個として死ぬ大人はほとんどいない。
 あなたが生まれたときと同じように、無垢のまま、統合された状態のまま、個としてあるがまま、死を迎えられるように手助けをするのが、私の仕事だ。誕生と死の間で、あなたのダンスは、星に達するほどの意識的な孤高を保たなければならない。独りで、妥協なく、反逆的精神を持て。反逆的精神を持たない限り、あなたはどんな精神も持てない。他の種類の精神というのは不可能なのだ。

 

【訳者あとがき】

 本書は、二〇一五年にOSHO Media Internationalから出版された "Words from a Man of No Words"の全訳です。もともとは、一九八九年にThe Rebel Publishing Houseから出版されたものですが、翻訳にあたってこちらの版は参照していません。

 アメリカのオレゴン州において英語で行われた一九八四年の十月三十日から十二月二十九日に渡る講話からの抜粋によって、本書は構成されています。この講話は、OSHOの残した膨大な量の講話の中でも、特別に重要な意味を持っています。三十年以上に渡ってほぼ毎日長時間の講話をこなしてきたOSHOには、三年半の沈黙を守った例外的な時期があるのですが、それがちょうどこの講話の直前に当たるのです。しかも、他の講話は、東洋の偉大な思想家──ブッダ、老子、達磨大師など──を紹介する形で行なわれることが多かったのに対して、この講話では、直接的にOSHO自身の思想が語られています。

 長い沈黙を破って、自分の思想を直接的に語り出した重要な講話の中から、さらに最重要部を抜き出して本書はまとめられています。講話からの抜粋によって一冊の本を編むように指示したのは、OSHO自身だったとのことです。本書はまさにOSHOの思想の、核心中の核心です。初めてOSHOを読む人にはもちろんのこと、OSHOに長年親しんできた人にも、本書をお薦めします。長大な講話の中ではむしろ見つけ出すことのできない美しいダイヤのような結晶がここにはあります。

 OSHOの人物については、どう紹介したら良いのか私には分かりません。偉大な真理というのは逆説的に満ちているものだと彼は説いていましたが、彼の生涯もまた逆説に満ちています。人物紹介は私の手には余ります。

 そもそもOSHOの思想を知るためには、彼の伝記的な知識を何も持たずに、直接その思想に接することが理想的だろうと私は思っています。私自身が、初めてその思想に触れたときもそうでした。もう十年以上昔のことになりますが、古本屋で哲学書に混ざって置かれていたOSHOの本を、たまたま手にとって読んだのでした。

 OSHOの言葉は、他の思想家たちとは全然違っていました。イメージ豊かでまるで詩のようでした。一読したときは非常に親しみやすく感じたのですが、その深遠さに気づいて目を見張る思いをしたのは、何度も読み返した後でした。しかも、それは読めば読むほど深みを増していきます。私の知る限り、こんな思想家は他にはいません。他の思想家の場合は、難解な表現で飾られた言葉を苦労して読み解いて行っても、魂に触れるものがなくて物足りない感じがするのが常でした。

 今回の翻訳には、かなり長い時間をかけています。字面だけの翻訳にならないように、OSHOの言葉の一つ一つが私の心に響くのを待ってから、心に響いたそれを日本語で表現するように心掛けました。また、誤訳や解釈の偏りを避けるために、すべての文章を二人で翻訳するようにしました。共訳者の庄司純さんのおかげで、翻訳の質をかなり上げることができたと思います。

 数行の断片を日々少しずつ翻訳していく作業は、私にとってはまるで瞑想でした。一切の無駄が削ぎ落とされている本書のスタイルは、ゆっくりと何度も繰り返し読むのに適しています。翻訳のために何度も同じ文章を読み返しましたが、決して飽きることがありませんでした。

 OSHOの講話の翻訳は、これまでに他社から何冊も出版されていますが、従来の一般的な翻訳とは異なる訳語を採用した箇所が、本書にはいくつかあります。それらは、OSHOを理解するための最重要語を含むので、以下に説明していきます。

 まずMindについてですが、これは一貫して「思考」と訳しました。他書では、「マインド」と翻訳されるか、あるいは「心」と翻訳されることが多いようです。しかし、本書ではHeartの訳語として「心」を使っています。
 思考と心の違いは何かというと、思考は考える機能で、心は感じる機能だということです。場所でイメージするなら、思考は脳のある頭で、心は心臓のある胸です。
 思考中心の生き方から、心へと移行するべきことをOSHOは説いています。これは分かりやすく言うと「考えるな、感じろ」ということです。しかし、OSHOの思想において最も重要なのは、思考から心への移行ではなく、心よりもさらに深いBeingへの移行です。

 Beingについては、「存在」という訳語で統一しようとしたのですが、それではしっくりこない箇所がありました。他書では「実存」などとも訳されていますが、こうした生硬な哲学用語ではOSHOの説くBeingの活き活きとして歓喜に溢れる感じが失われてしまいます。それで、本書では「生命」と訳しました。生命といっても、死んだら空に昇っていく霊魂のような実体だとか、生存を成り立たせている機能だとかを思い浮かべてもらっては、翻訳者としてはちょっと困ります。そういった存在者ではなく、存在そのものが生命なのだと理解していただきたいです。
 本書では省かれている箇所ですが、元の講話の中でOSHOは、Beingのことを、Life source(生命の源)であると説明しています。「生命」という翻訳は、根拠のないデタラメではありません。Existence(存在)と、Being(存在、在り方、生命)と、Life(生命、生、人生)は、重なり合うところの多い概念なのだと言えます。

 存在の真実は、思考によって覆い隠されてしまっているため、普通には見ることができません。思考の覆いを取り除くために必要なのが、瞑想であり、気づきです。
 このことを踏まえて、文脈に応じてDiscoverを「覆いを取り除いて発見する」と翻訳しました。Discoverは語源的に、覆い(cover)を取り除く(dis)という意味があります。
 同様の理由から、Revealについても「覆い隠されていたものを露わにする」と翻訳してあります。こちらは語源的に、ベール(veil)を取り去って元に戻す(re)という意味です。

 鋭い言語感覚を持つOSHOの言葉は、辞書的な翻訳では意味が通じず、語源まで考慮する必要がある場合が多々あります。ReactとRespondの翻訳もそうです。本書ではそれぞれ、「同じ反応」と、「状況にふさわしい応答」と訳し分けてあります。OSHOが説いているのは、無意識的に同じ反応するのではなく、気づきを持って状況にふさわしい応答をせよ、ということです。
 Reactは語源的に、再び(re)行動する(act)という意味にとれます。社会的に刷り込まれたパターンに従って、気づきのないままに、同じ反応を繰り返してしまうことが、Reactです。もしくは、与えられた刺激に対して、条件反射的な行動をしてしまうことがReactだといえます。
 Respondは語源的に、~に対して(re)答える(spond)という意味にとれます。相手や状況に応じたふさわしい対応を、気づきのある意識によって行なうのが、Respondです。
 ちなみに、Respondすることのできる能力が、Responsibility(責任)です。「すべての責任はあなたにある」とOSHOは説いていますが、彼の説く責任は、気づきを持って状況にふさわしい応答をできる能力を得ることと関連しています。間違いや過失を咎めるだけの、日本にありがちな自己責任論とは異なるものです。

 Individualityについては、「個としての本性」と訳しました。語源を考慮すると、Individualityには、分裂し得ない個、という意味があります。他書では「個性」と翻訳されることが多いようです。
 しかし「個性」という訳では、OSHOがIndividualityという言葉に託している深い意味を、充分に表現できません。世間で「君は個性的だね」などと言われるのは、たとえば派手な髪型をしてるとか珍しい服装をしているときですが、OSHOが意味しているのは、こういう薄っぺらい表面的な個性ではなくて、もっと深い、もっと本質的なものです。「個としての本性」という訳語をIndividualityにあてたのは、そのためです。
 本書ではPersonalityの訳語として、「個性」をあてています。Personalityには、ペルソナ、つまり仮面の意味があります。これは社会の中での仮面を付けて生きている姿、社会的な役割やキャラクターを演じている姿のことです。
 世間で「個性」と呼ばれているものは、実のところ、表面的な仮面に過ぎません。OSHOが言うように、これまでどの社会も「まるで個性が、個としての本性であるかのように欺いてきた」わけです。Personalityは、「性格」や「人格」などと訳されるのが一般的ですが、「まるで性格が、個性であるかのように欺いてきた」という訳では意味が通じなくなってしまいます。

 PersonalityとIndividualityの違いは、EgoとSelfの違いに、ほぼ対応しています。Egoは表面的な仮面です。いわばニセモノの自分です。Selfは、本当の自分のことです。これを真我、大我、本来の面目などと呼ぶこともできるでしょう。「自分とは何か?」という問いで探求するべきは、EgoではなくてSelfの方です。
 本書では、Egoを「自我」、Selfを「自己」と翻訳しました。これについては、トランスパーソナル心理学やユング心理学などとも共通する一般的な翻訳に従っています。
 また、OneselfやYourselfのように語尾にSelfが付いている語は、「自分自身」や「あなた自身」というように「〜自身」と訳すようにしました。語尾からも伺えるにように、これらは基本的に、自己に対応しています。

 Selfishnessについては、「自己中心的」と訳しました。自己中心的ということは世間では否定的に捉えられることが多いですが、OSHOは自己中心的であることを肯定しています。自己中心的というのは、自己に関わるものであって、自我に関わるエゴイズムとは異なるからです。
 「反逆的精神を持て、まずは自己中心的になれ」とOSHOは説いていますが、これが意味するのは、エゴイスティックな反逆者となれということではありません。そうではなくて、社会に盲従することなく、真の自己に目覚め、真の人間性をどこまでも尊重しなさいということです。これに関するひどい誤解が昔からあるようなので、特に注意を促しておきたいと思います。

 以上、どのような理解に基づいて本書を訳したのか説明してきました。本書を読む上で、理解の手掛かりになるものが含まれているのではないかと思います。

 この翻訳によってOSHOの思想が、より多くの読者に理解されることを願っています。その理解は、読者をより豊かな人生へと導くに違いありません。この本には間違いなく、人生を変えるほどの力があります。翻訳をしながら、私はずっとその力を感じていました。読者の皆様にも、それが伝わりますように──。
 

 

* 「訳者あとがき」の掲載は本来は認められていないのですが、特別に許可していただきました。ご厚意を感謝いたします。

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