民主主義と権威主義(可謬主義と無謬主義)
羅冠聡(ネイサン・ロー)だけでなく、周庭(アグネス・チョウ)も指名手配されることになった。パスポートを取り上げられて、巨大な監獄のような香港から一歩も出られないという状況に比べれば、指名手配の方がずっとマシなのではないかと思う。とはいえ、「一生追われることになる」などと脅しをかける権威主義政権の横暴には嫌気がする。 周庭さんにせよ、羅冠聡さんにせよ、あるいは黄之鋒(ジョシュア・ウォン)さんにせよ、それほどの「罪」を犯したのだろうか? なぜ権威主義政権は、善良な市民を迫害するのだろうか? 『フリーダム』と『香港人に希望はあるか』を読み返しながら、いま再びこの問題を考えている。ポパーの『開かれた社会とその敵』も併せて読んでいる。以下の文章は、もっと長い論考の下書きの一部分だが、全体の完成にはだいぶ時間がかかりそうなので、少し手を加えたうえでここに載せておきたい。 ポパーは、人間理性には限界があって、誤りをまぬがれ得ないのだという可謬主義の立場をとる。ポパーが政治的に民主主義を擁護するのは、認識論的な可謬主義と関係がある。つまり、どんな政府も間違いを犯すので、民主主義を擁護するのである。それに対して、権威主義というのは、政府のやることには間違いはあり得ないという前提、すなわち無謬主義に立脚している。民主主義と権威主義という、政治体制における二つの基本的類型がこうして区別されることになる。 民主主義では、政府が方向性を間違える可能性が認められているため、暴力に頼らずに政権交代を行なうための制度が備わっている。それに対して、権威主義(独裁、僭主制)では、政府が方向性を間違える可能性が認められていないので、平和的な政権交代の仕組みが備わっていない。 民主主義であっても、政府がときに方向性を間違えることは避けがたい。選挙や多数決は、政府が正しい決定をするということを何ら保証するものではない。とはいえ、政府がときに方向性を間違えるのは、民主主義の制度的な欠陥だとはいえない。最善の統治者を確実に選び出すことができないのは、むしろ理性の限界に由来するのであり、民主主義から権威主義へと鞍替えしたところで根本的には解決できない問題である。民主主義における最も重要な点は、政府が方向性を間違えていることが大多数の人の目に明らかになった場合に、暴力に頼らず、理性的に方向転換を行なえる仕組みに