人権の基礎

 人権というのは、もともと西洋で発達した考え方で、キリスト教と密接に関連していると思われます。天賦人権説というのは、神がすべての人に権利を授けるわけです。天賦人権の基礎には、キリスト教の神があるわけです。

しかし、キリスト教が人権の基礎にあるとすると、キリスト教を信じない者たちの間ではどうやって人権を基礎づけるのかという問題が生じます。キリスト教の神の代わりに、儒教的な「天」を持ち出せばそれで話が済むという場合もあるでしょうが、そうした宗教的な超越項に頼らずに人権を基礎づけることはできるでしょうか?

現代では、神や天のような宗教的な超越項に頼った議論が説得力を欠いてしまっているという現状があります。そうすると人権というものの基礎も揺らいできてしまうわけです。これは学者の間のスコラ的議論の中においてだけ揺らいでいるわけではなく、普通の人の常識的な考えの中においても揺らいできています。神が死んだら、人権も死んでしまったということです。

現代において人権を基礎づけているものはなにかといったら、法律だと考える人がかなりいるのではないでしょうか? 日本国憲法が、人権の基礎にあると。しかし、この考えに従えば、法律が変われば人権がなくなることもあり得ます。法律が、人権を基礎づけているのだとしたら、人権というのは普遍的な理想ではなくなるわけです。

中国における人権問題に対する態度をめぐっても、こうした問題が関係してきます。法律が保証しない限り人権というものが存在しないのだとすると、中国の法律に従って人々を収容所に送ることを人権侵害だと考えることができなくなります。 日本の基準では人権侵害でも、中国の基準では人権侵害ではない、ということになってしまうわけです。実際にそう考えて中国に抗議しないという人が、日本にはたくさんいます。

これは困った問題であってなんとかせねばなりません。法律でも神でもない、真に普遍的な何かによって人権を基礎づけねばならないわけです。ではどういう方向で基礎づけるのか? たとえば、西田哲学の絶対無という考え方などにこうした問題に対するヒントがあると僕は考えていますが、最も学ぶところの大きかったのはOSHOの哲学です。『瞑想録:静寂の言葉』はそうした仕事でした。この方向性を、今後の活動の中でもう少し展開させていきたいと思っています。

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